ゆかりの品々

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前田利家新田老母宛書状(まえだとしいえ にった ろう ぼ あてしょじょう)

天正18年、妙印尼輝子は豊臣秀吉の小田原征伐に対し北条方として籠城する息子達(国繁と長尾顕長)に反し、77歳の高齢の身にありながら嫡孫の由良貞繁を擁して豊臣方に参陣。 松井田城を攻める前田利家、上杉景勝麾下に加わっている。その際に、前田利家から由良家身代の保証を、強く豊臣秀吉に働きかける旨妙印尼輝子に伝えた書状。

※前田利家は豊臣秀吉とは織田信長の家来の時からの付き合い。旧友的存在。

群馬県桐生市指定重要文化財
読み下し文

以上

新田身上の事
上様御前
別条之無き様に
精をいれ馳走
申すべく 我々
確かに請取申し候
ゆくゆくまでも疎意
有るまじく候間、お
心安かるべく候 かしく

備前の守
六月七日 とし家 印

新田御老母へ

まいる
現代語訳

以上

新田身代の事
上様(豊臣秀吉)御前(へ)
間違い無く
心をいれてあれこれと努力します。
我々(前田利家・上杉景勝)は
たしかに請取りました。
行く末までも疎んずることの
無いようにしますから
ご安心ください。 かしく

備前の守
天正18年6月7日 前田利家 印(刻印文字:利家長寿)

新田御老母へ(妙印尼輝子へ)

まいる(この書状を差し上げます。)


妙印尼輝子(赤井輝子)人形

妙印尼輝子(赤井輝子)人形 群馬県館林市で毎年行なわれている、お雛さままつり(毎年2月中旬~3月初旬)で展示されている。妙印尼輝子(赤井輝子)雛人形。展示は旧秋元別邸(つつじが岡第二公園)。明治時代に作られたと思われる。

元は個人所有と思われるが、どのような経緯でお雛さままつりに展示されるよになったか不明。(館林観光協会でも不明。※どなたかご存知の方がいらっしゃればご一報ください。)


山姥切国広(やまんばぎりくにひろ)

安土桃山時代の刀工・堀川国広作。天正18年(1590年)2月に長尾顕長の求めに応じて打ったのが、山姥切国広である。これは、顕長が北条氏政から天正14年に賜った「山姥切」を写した作で、堀川国広最高傑作の呼び声高い品である。鍛刀地は足利学校

重要文化財
個人所有


山姥切(やまんばぎり)

長義作。天正14年7月11日小田原城に参上した際、北条氏政から長尾顕長に贈られた刀。昔信濃戸隠山中の山姥を退治したことから「山姥切」と称される。その後、天正18年5月3日に顕長に依頼をされた堀川国広が、銘打ちをおこなっている。

銘:本作長義天正十八年庚寅五月三日二九州日向住国広銘打 長尾新五郎平朝臣顕長所持云々

重要文化財
公益財団法人 徳川黎明会所蔵


布袋国広(ほていくにひろ)

天正18年(1590年)8月、足利学校にて鍛刀。堀川(信濃守)国広は、日向国(現宮崎県)出身、各地を放浪、晩年は京都堀川に住む。新刀鍛冶の第一人者。この脇差は京都で人をあやめた国広が、下野足利学校にのがれ、滅罪のために作ったといわれている。差裏の「夢香梅里多」は禅語というが、明らかでない。「慊堂日暦」や「甲子夜話」などで言及されており、古くから存在を知られていたことがうかがえる。

脇差:堀川国広作
刃長:約31.2 反0.76  元幅3.0 平造り


差表:日州住信濃守国広作
差裏:天正十八年八月日 於野州足利学校打之

彫刻
差表:杖
差裏:睡り布袋像と時の足利学校庠主閑室元佶の書いたという「夢香梅里多」の文字
刃文:五の目乱れ、地紋杢目肌に池沸いつく

財団法人 足利市民文化財団所蔵